※問題設定した瞬間に答えが出る話なのであまり面白いネタではない。

※ひぐらし・うみねこのネタバレを含みます。

■前段1
 そもそも「後期クイーン問題」という言葉自体は推理小説での「専門用語」です。1
 しかし、この問題意識(問い)は必ずしも推理小説に閉じたものではありません。
「論理全般を対象にして」同じような問いがなされており、それがゲーデルの「不完全性定理」です。これを凄く簡単に一言でいうと、「論理だけでは解けない問題がある≒論理の力には限界がある」という話です。(突っ込んだ話はwikipedia参照)
 ……と書きましたが本当は順番が逆で、「不完全性定理の推理小説における実装・実践が後期クイーン問題」という方が適切かと思われます。

■前段2
「ひぐらしのなく頃に」のテーマが「仲間を信じる」「諦めない」にあることについては、殊更説明は不要かと思います。
 ただし「諦めない」の方は梨花≒ベルンカステルの特性によるので、ここでは考慮しません。押さえておきたいのは「仲間を信じる」の方。

□本題 「うみねこのなく頃に」について

 ひぐらしと対置してみれば明らかなように、うみねこでは「何を信じるのか」「何故信じるのか」という点を積極的に問題にせざるを得ません。(ひぐらしではこの点はあまり描かれませんでした2
 表現を代えると、「犯人は○○でトリックは××でした。よって人間に犯行が可能なので、魔女は存在しません」という単純な推理小説的解決では収まらないでしょう。
 当然、(出題・回答で計8作と仮定して)終盤の7・8作目あたりではこのあたりが強く問われることになると思われます。

 ……という点まで思考を進めてから改めて「論理の限界」(≒「『論理的決定』の恣意性」)を思考の俎上に乗せると、魔女が存在するか否か(魔女の存在を認めるか否か)は必ずしも重要ではないのではないかと思えてきます。結論がどちらであるにせよ、「出された結論」の真実性は何ら担保されないので。
 表現を代えると、「『出された結論の真実性は何ら担保されない』ということに自覚的であってなお『結論を出す』ことが出来るか」という点は焦点のひとつであろうと思われます。
(この辺はまるっきり「科学」を相手にしたときの態度と重なるのですが、それはまた別の話)

「魔女が存在するか否かは必ずしも重要ではない」ような展開としては、大まかには
「7作目:縁寿がベアトリーチェの関与を否定(人間側勝利)
→ラムダデルタがベアトリーチェを粛清
→『駄目だぜ、全然駄目だぜ』
→8作目:戦人がラムダデルタを否定・かつベアトリーチェは肯定(魔女側勝利)
→戦人『……ごめん』 縁寿『……バカ』」
 という流れが考えられます。

 勿論、今後もEP3の縁寿のような新キャラが投下される可能性はあり、細かい予想にあまり意味はないのですが、少なくとも「魔女を否定して人間側の勝利で終わる」という点については大いに疑ってかかるべきかと思います。
(何のために「縁寿から見た戦人は12年も前の人」として設定されているか、のアンサーにもなります)

 以上でした。

  1. この言葉自体の解説は省略します。必要ならこのベストアンサーでも見てください。 []
  2. 「信じないと悲劇が起こる」という消極的な描かれ方はしていた。 []

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