■いち個人がWEBで語ろうとすることについての私見。
多分「何度目か」だと思う。(「書いたけどupしないで消し」とかやってるから、俺の記憶にあるよりは少ないかもしれない。)
前提として、「いち個人が」です。そのサイトを離れても知名度のある人はまた別。
それは徹底的に主観的なものであるべきです。
(それが「良い」「悪い」については議論しません。「『事実としてそうだ』と俺は認識している」という話です。)
「何処の誰かも判らない個人が認定する『客観的なレベルの高さ』」なんて、ぶっちゃけ全然意味も価値もないのです。(あると思っているのは当の本人だけ、です。)
例えば道ですれ違った人に何かを滔々と語られたとして、聞く耳持ちます?
例えば「2chで『証拠』を並べながら『客観的な批評』を展開する長文を見かけた」として、「根拠が書いてあるから公平だろう」と思って読みますか?
「WEBで語る」ということは、殆どそれと同じことです。
少なくとも「その人はどんな人で」「何を見て・どういう理由で」「どう評価したのか」、という3点については相応に(どれも必須ではないけれど)担保されている必要があります。そうでなければ、わざわざ時間をかけて「その語り」を読む動機付けに欠けます。
「自分の言葉が誰かに届くことを期待するのなら、その言葉が出てくるまでの経緯と理由を明らかにするのは必要条件だ」という話です。
(※コミュニケーション成立を考えるなら、ムラ社会的に「なんとなくOKになるような言葉」を選ぶという選択肢も極めて有力ですが、俺的に論外です。それでは、「話が通じたその先」への道がない。)
表現を変えると「『その語り』を読む人を想定したとき、その人にとって『いち個人以上の具体的な誰か』でなければ、そもそも読んでもらえない」ということです。
勿論「無色透明の何処かの誰か」から「此処に居る私」になると、「こいつとは趣味が合わんな」「こいつの価値観は気に入らんな」で去ってしまう人も居るのですが、それを避けようとするのは、強い言葉を使うと「傲慢」です。高望みも大概にしなさい、です。(対偶を取ると「全ての人に好まれる私」ですよ?)
そして逆に、「此処に居る私」を認識してなお「語り」を聞いてもらえたならば、その段階では「良い/悪い」「面白い/つまらない」のたった一言ですら、(場合によってはそれで十分な程に)十分な意味が伝わると思うのです。(だからといって敢えて不親切に判り難く語る必要はないですけど。)
別な話。
客観的で公平な語りが(仮に)なされたとして、「それが本当に客観的・公平であるならば、そもそも読む価値はあるのか」という点も、個人的には疑わしく思っています。
それって「議論の余地がない」ってことですよね? 「見に行ったら、受け入れるしかない結論が置いてある」という状態。(正直想像つかねーけど。)
「それがどんなものか」という興味は確かにあるけれど、継続して見たいと思うのかな、俺は? (正しい答えがあったとして、得てして「ふーん」で終わっちゃうもんなんですよね。)


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